色々やってみる日記

粘土フィギュアの製作ログ、うつや不安症の話、論文執筆やResearch Studentのあれこれについて。

不安障害の症状と辛さについて、再び。

土曜日に母とスカイプでゆっくり話していた。過去にも何回か「不安障害なんて思い込み」みたいなことを遠回しに言われていて、今回また「私にだって不安なことくらいあるんだよ」と言われた。少しだけ頑張って「わいの不安障害はこういうものだよ。腰痛と椎間板ヘルニアが別みたいに、不安と不安障害は違うんだよ」を伝えたら、なんとなく「あ、私が思っていたより深刻なのかしら?」と思ってもらえたみたい*1

 

ちょっとここでも自分にとっての「不安障害はこういうもの・こういうものじゃない」を書いてみようかなと思った。

 

不安障害には一般的に強迫性障害(OCD)、パニック障害、社会不安障害、全般性不安障害(GAD)、恐怖症(フォビア)、PTSD等の内的バリエーションがある。このなかでわいが当てはまるのはSpecific phobia、特定の物に恐怖心を感じる『恐怖症』(例えば高所恐怖症、広場恐怖症、閉所恐怖症、アラクノフォビア等)。恐怖症が原因で他にも不安感が広がって、本当にうっすらとだけGADがあるような感じだと思っている。ここに書いてあるのはわい個人の不安障害であって、不安障害の人全員を代弁するものではない。

 

 

 

 

不安障害「これだ・これじゃない」わいヴァージョン。

不安障害は不安ではない。

小学生くらいから不安感は強い方だった。教育方針がpunitiveな学校に通っていたこともあって、どうすれば大人から怒られずに済むかばかりを考えている子供だった。不安障害の人にはけっこうあるらしいが「逮捕される」という不安が強くあって(人によっては死への不安感、病気への不安感、貧困への不安感等バリエーションが様々だと思います)、品行方正に生きてきたにも関わらず、「逮捕される」という潜在的不安を抱えて365日を生きている。空港の入管審査とか死ぬほど嫌いだ。

 

しかし、上の状態は私にとっては不安「障害」ではなかった。30年ほど生きてきたなかで(初期の軽い症状を含めたなら)わいが不安「障害」に寄って行ったのはここ4年の話。明確に不安障害を名乗れるくらい症状が悪化したのはここ2年だ。不安障害じゃない時期があったので、「不安感と不安障害は違う」という確固たる認識がある。

 

主観的な見解だと、一番の違いは「逃避傾向の強さ」である。小学校のときは毎日怒られないか不安だったけれど、学校に通えていた。なんなら皆勤だった。修士のときは、指導教官がムードにばらつきのある人で、唐突に怒ることがあるから苦手だった。けど、メールチェックは毎日していたし、怖いなと思いつつ即返信ができていた。博士の指導教官候補の人に「こういう研究をしているものですけど、指導していただけますか?」と修論を送ったときも、ゲロ吐きそうに不安だったけど、毎日返信が来ていないかチェックできた。

 

こういうことが、今はどれもできない。学校にも行けないし、指導教官とのコミュニケーションも取れないし、こちらが起こしたアクションへのレスポンスを確認することもできない。心の中にかなり大きなモンスターが住んでいて(こいつが不安障害)、俺の服の裾をぐいぐいぐいぐいぐいぐい引っ張ってくる。俺の心を綺麗にくじくことをお仕事にしている。10ヶ月間外出できなかったときは、住んでいる街の境界線に「結界が張られているようだ」と思った。見えないウォールマリアが確実にあって、本当に結界に弾かれるように、そこから外に出られない。

 

出ようとすると(これが暴露療法と呼ばれる)、私の場合は身体的に不安反応(パニック)が出る。胸の鼓動がドンキーコングになって、血液が凍ったり沸騰したりする。手先が冷たくなって、体が熱くなって、肺がゲンガーでも吸い込んだみたいにもったりと呼吸が苦しくなる。頭にパーンと何かしらの成分が回って、真っ白になる。それがぜーんぶいっぺんに来るから、「あかん、パニックで死んでしまう」と思う。実際にはパニック障害では人は死なないらしいんだけれど、本当に「こんなんに耐えるくらいなら死ぬ」っていうくらい、経験している本人には辛いものがある。ベロベロに酔っ払って前後不覚な状態で、クラブのレーザービームとか爆音とか車のハイビーム浴びてて心臓ばくばくするような感じ?

 

 

不安障害は「逃避のするため」の詐病じゃない。

わいはアドラー心理学があまり好きじゃない。それはアドラーがPTSDを「辛い過去があるから行動できないんじゃなく、行動したくないという欲望を叶えるために辛い過去を理由にして逃避を叶えている」みたいなことを言うから。一冊しか読んでないから、誤読だったらごめんね。その理屈に従えば、不安障害も「逃避するという目的を叶えるために」体が起こしてくれている症状ということになる。

 

もしアドラーの理屈が本当だったとすれば、「逃避したい」という目的と同等か時にはそれ以上の「もう逃避を止めたい」という欲求について説明してほしい。なぜ体はいつも、前者の目標を叶えるための反応だけを返して、後者の目標を叶えるための反応を返さないのか。例えば、今のわいにはもうほとんど逃避をするメリットはない。もういろんな答えは出てしまっているからだ。あとはもう事務仕事が残っているだけ。それでもわいは、未だにいろんなことができなくて悩んでいる。未だに恐怖症に向き合うのがとても辛い。モンスターは服を引っ張るどころか、わいを抱きかかえんばかりで、振り切ってやろうとするとドコドコ身体反応が襲ってくる。

 

不安障害やPTSDを「逃避するための手段」だという仮説を一旦受け入れたとしよう。じゃあ次に「解除の仕方を教えてくれ」。

 

誰でもいいから、とりあえず解除の仕方を教えてくれよ。

 

 

 

不安障害は辛い。

何度も言ってきたけど、不安障害はとても辛い。私の場合、その理由は「不安障害以外の部分はけっこう健康だから」だと思う。うつのときみたいにベッドから起き上がれないわけじゃなく、体のどこかが痛いわけじゃない。エネルギーが空っぽというわけでもない(うつを併発していたら、話は別)。身体的なバロメーターで言うと、行動するための条件は様々揃っている状態。それなのに行動ができない。となると、必然的に自分を責めてしまう。そこそこ健康なのに、なぜできないんだ?と。何を同じところで足踏みしているんだ?どうして踏み出さないんだ?全部お前の意志で足踏みしているんだろ?

 

だから言ってるやんけ、解除の仕方を教えてくry。

 

※ 私は睡眠障害、うつ、不安障害を国外で発症したので知らなかったが、パニック障害だと障害年金がもらえないらしい。こういう理由が明白じゃない決定ってとてももやもやする。

 

【参照】パニック障害の何が辛いかを簡単に語る - ニャート

 

 

不安障害は治らないかもしれないが、抱えて生きていくことは可能らしい

不安障害を治すのはとても大変、というのが、わい個人の経験+様々な治療本から受けた印象である。不安障害が「寛解した」というのは、うつに比べても目にしない気がする。いや、すまん、よくわからん。もしかしたらサクっと寛解した人も大勢いらっしゃるのかもしれない。わいが読んだ本はけっこう「不安という身体的な症状自体は消えないかもしれないけど、それが社会活動や生活に多大なる支障を及ぼさないようにすることは可能だよ」っていうアプローチが多かった。

 

俺は不安の症状がとてもとても辛くて苦手なので、できたら「結界を解除していく方向」で治療をしたいんだが、「結界はずっと張られたままで、ぞわっとおえっと死ぬっとしながらも通り抜ける方向」になる可能性もあるんだなと認識している(ひぇ)。

 

パニック障害を告白されたオリックスの小谷野選手も、今でも打席に立つ前は吐いてしまうらしい。それでも選手を続けられているのは「不安を感じつつ、生活はできている」の好例なんだろう。パニックに全く慣れる気配がない自分としては、本当にすごいなと思う。

 

【参照】過去の僕に戻りたいとは思わない。 - ほぼ日刊イトイ新聞

 

※ 水泳のフェスプス選手も長年うつと不安障害に苦しんでいる一人だ。プロ野球選手でも、オリンピックのメダルを20個以上持っていても、不安障害やうつになるときゃなるし、なったら死ぬほど辛いのだ。そこには個人の強さや弱さ、健全さ不健全さ、正しさや間違いは関係ない(SNS等で、「メンヘラ=社会不適合」という強めの意見をたまに目にするけど、誰だってなるときゃなるんやで)。

 

本筋に話を戻す。どうやら、不安障害を抱えつつ生きていく上で重要なのは、

tips
  1. 医者やプロフェッショナルの助けを得ていること
  2. パニック症状が「出ながらも」行動する方法を学んだこと
  3. 不安障害の自分を許して、恥だと思わないで受け入れられたこと
  4. みんながちょっとずつ正直になって、自分の苦しみを話すこと

のようだなと個人的には思う。私だと①は現状難しい(もうすぐ場所を移動してしまうので、医療サポートを受けるベストタイミングじゃない)、②はこの2ヶ月くらいでチャレンジ中、③もな〜、あんまりできてない気がする。

 

うつのときの涙は体の自然な反応というか、抗いがたく流れるものだったけど、不安障害の涙は「素のままの自分が『こんなこともできない』『こんなことが死ぬほど怖い』『弱くて、無責任な自分が恥ずかしい』と思って泣いている」からとても恥ずかしいと思ってしまう。この後に及んでまだ強がりなのだ。

  

でも言い換えれば、不安障害を治療中の自分は「いくらでも泣いていい、恥を晒していい、人に迷惑をかけてもいい」ということになる。それをすることで、最終的には不安障害と共生できる道が開けていくみたいだから。

 

②に関しては、CBTやACT、森田療法を筆頭に方法論がいくつか存在する。暴露療法はメソッドを学ぶことでより安全に、より効果的に実践できる(んだと思う)。けど、どのメソッドを使おうが根底にあるのはシンプルに勇気の問題な気がする。わいはこの勇気を出すのに、丸10ヶ月もかかってしまった。もし③が先に来て、泣き叫んででもハウスメイトや親や医者に助けを呼べていたなら、外的な支援のおかげでもっと早く②に取り組めた可能性はあるなと思う。

 

そして最後の④は、世の中のほぼほぼ全ての人間が、自分の弱いところを隠して生きてるんじゃないかい?ということ*2。案外腹を割ってしゃべってみたら、みんなそれぞれ病気だったり、恋愛だったり、夫婦関係だったり、子供のことだったり、お金のことだったり、問題を抱えて生きている。先に自分の弱さをさらけ出すことで、相手を安心させてあげられるということはおおいにあるような気がしてる。だからそれも含めて、わいはここから先の不安障害治療で、泣いてもいいし、弱さをさらけ出してもいいし、みっともなくてもいいし、あがいでもいいし、上手にできなくてもいいんだと思う。「どうしたん?大丈夫?」って周りに気づかれるくらいあけっぴろげでいいんじゃないか。今までのわいは上手に自分の不安を隠しすぎたのだ。

 

 

 

*1:ちなみに、母にはいつも心配してもらって、見守ってもらって、支えてもらっているのでdisする気は1ミクロンもない。いつもありがたう。

*2:except for highly insensitive person or something.

10ヶ月ぶりにシャバに出た。【暴露療法シリーズ③】

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朝10:30に起きてパーッとシャワーを浴びて、今日はこの10ヶ月で初めてザットタウン(家の最寄駅)から外に出ました。バスに乗ろうとしてゼェゼェゼェゼェして、嗚咽。

 

Facebookの時も思ったけど、わたしが近寄っていなかっただけで、このバスも、この路線も、大学も、この10ヶ月間変わらず存在していたんだね。パニックアタックが来るかと思ったけど、大丈夫だった。一度乗ってしまったら、「バスに乗る」というアイデアよりも実際に乗ってしまう方が幾分か楽だと感じた。

 

それから大学の学生課へ。入る前に大きなコーヒーを購入。店のお姉ちゃんがノリノリの接客で笑う。こっちの日向の世界は、住人みんな幸せそうだ。バスに乗った瞬間から、一瞬の例外もなくずっと死にそう。でも学生課に入る。優しいボランティアのお姉ちゃんがDisability supportという障害支援のデスクの場所を教えてくれた。向かって、事情をかいつまんで説明。すぐに相談に乗ってもらえるかと思ったら、アポイントメント制でいちばん早く取れるアポが23日の2時からだったのでお願いする。そうか、外界の事情はわたしの都合だけでは動かないのだ。

 

ここからメールをチェックするか(デスクで一緒に見てもらおうと思っていた)、何をするかと考えて、精神科医にアポイントメントを取りに行くことに。ヘルスセンターは大学から徒歩10分ほど。普段、会ってたのが水・木・金のどれかだったから不在かな?と思った。案の定だれもいない。ヘルスセンターのソファに座って、泣きながらメール原案を作成する。いろんなメールが届いていると思うので、一律返信できるような、「こっちの事情はこうでした、これをお願いしたいです」という内容を書く。鼻水がダラダラ流れる……。

 

 

 

メールを書いていて、うつもだいぶ良くなったけど、結局2015年以降の自分はずーっとinsaneだったんだなと思った。自分の通っている大学に入れない。自分の指導教官に連絡できない。自分をアシストするはずの学生課に脅されているような気がする。大丈夫っていうのは「身動き一つできないときに比べて回復した」という意味であって、元どおりになったというわけでは全くなかったんだな、と。こう見えて、こちらに来て最初の1年ちょいは精神が健常だったから、普通に大学に通って、普通に指導教官にフィードバックをもらって、普通に学生課に質問メールを送ってた。でもこの4年はその普通が何ひとつできなくなっていた。これは一体どこの故障なんだろう?

 

メール原案を保存して、今から何をしようか検討。ほんとうはメール見た方がいいのかと思いつつ、昨日から「死にたいー生きたい」「できないーできる」「大丈夫じゃないー大丈夫」という相反する思考に翻弄されてて、今日もう一回エンジンを入れるのは……と、メールに添付予定の、世界から隔離されている間に書いていた博論のドラフトを見直し始める。ちらちら暇つぶしにツイッターで博士やポスドクのアライさんをフォローし始める。

 

ヘルスセンターに着いたのがPM3時前で、この時にはもうPM6時くらい。外は大雨。帰る気も失せるけど、頑張って雨の中を歩く。めちゃくちゃ寒い。相変わらずゼェゼェしてたし、体びっちょびちょで物理的に悲しかったけど、なんとか8時ごろに家につく。ハァ。でもすごいはすごい。外出ができた。勇気を出して、学生課にもいけた。あとはメールだけだ。そのメールが本丸だけど、それでも確実に前進してる。この10ヶ月間、なんどもなんどもなんどもなんどもやろうとしてできなかったことを、大晦日のExposure以来、やっている。やり方が正しい暴露療法は、不安の壁を壊すのにいちばん効果があるのかもしれない。今は今で辛いけど、あんなに不可能だと思っていたことができたんだ。わいが人生に望む「勇敢でありたい」という目標に向かって進んでいて、えらい。ACTにはずっと助けられている(CBTと違って、ACTのマインドフルネスは紙やペンが要らないから便利)。

 

昨日とち狂って、もう死のうかと(実行予定はないけど)いう考えが頭をよぎったときに、ふと昔登録した海外大学院のスレを思い出した。PhD anxiety depression とか入れると、このフォーラムのスレが出て来たりする。初めて、書き込んでみた。今こういう状況なんだけど、どうしたらいいと思う?って。優しい返答が2つも来ていた。しかも両方ともとても参考になりそうなもの。赤の他人の悩みに時間を割いてくれる人がいるんだ。感動。優しいね。今日はコーヒー屋の姉ちゃんが明るかったし、学生課の人が2人とも優しかったし、「こうも雨だとやんなっちゃうね!」って話しかけて来たおじさんは「Have a nice evening!」って言ってくれた。やらなきゃいけない課題はまだ山積みだけど、明日も生きていくつかはやろう。

 

次にやるべきことは、

  1. 部屋の掃除(21日午前か今夜)
  2. シーツの洗濯(21日朝)
  3. 本丸メールチェック(どうしても無理なら23日に)
  4. 本丸メールに返信(どうしても無理なら23日に)
  5. ドラフトの最終見直し(本丸メールチェックまでに)
  6. 精神科アポ(23日がいちばん確実)
  7. 23日の障害支援デスクとのミーティング(23日)
  8. 必要があれば学生ユニオンへの連絡(本丸メールを見次第ー23日)
  9. プライベートメールの内容チェック(あした締め切りの案件がひとつあったはず:21日午前)
  10. 倫理へのレポート提出が2月15日まで。
  11. そして副次的に、インフォーマントへの連絡と(2月中)
  12. 必要関係者へのお伺い(2月中)

 

明日から1週間、母と姉が応援に来てくれる。予想以上にバタバタしそうで遊べないかもしれないけど、たくさんお尻を叩いてもらって、なんとか前に進めて行こう。バランスは忘れずに、遊ぶ日も作ろう。明日メール頑張れたら、明後日は1日遊びの日にできるかもしれない。

 

 

 

生まれて初めて、ほんとうの自殺願望があたまのなかにいる。

俺は多分基本的には理性的な方だし、意志力も強い方だ。身内に自殺者がいるから、どんなにうつのひどい時でも自殺をしようとは思わなかった。今、生まれて初めて本当に自殺したい人の気持ちがわかった気がする。多分、一番の問題は「そのことが自分の人生のすべてのように思えている」ことなんだ。仕事を失ったんだとしたら、そのことが。パートナーを失ったんだとしたら、そのことが。お金がなくて辛いんだとしたら、そのことが。体が痛くて辛いんだとしたら、そのことが。学校に行きたくないなら、そのことが。そういうイベントはどれだけ辛くても本来は自分という人生の一部であるはずなのに(大きくても、すべてではない)、脳内でそれ=自分になっている。だから、逃げ場がない。プランBがない。辛さが自分の人生になってしまうから、他の可能性が入り込む余地がない。この頭と想像力のすべてを占める苦しみから逃れるためには死ぬしかない。多分、これは視野狭窄の一種なんだ。

 

 

 

いや、ほんとうのところは他の人がどうかなんてわからないけど(主語の大きいやつやっちゃってごめん)、今のわたしはそんな風に思っている。それだけ、今失いかけているものが大切だってことだ。そのために、いっぱいいっぱいがんばってきたってことだ。そして、まだ諦めてないけど、うん。この土日、久しぶりに眠れなくて、ご飯が食べられなかった。

 

さっきから、xxxxxxxxxことしか考えられない。わいはリスカはしたことがないし、天地神明に誓って、どんなにメンタルヘルスが悪かったときにも自殺しようとだけは思わなかったのだ。

 

まずは膨らみきったイクラちゃん(肥大化したイベント)を潰すところから始めよう。それがどんなに大事でも、わいの人生のみっちり100%ということはないはずだから。自由な国に住んでいた頃のわいが今のわいを想像できなかったように、わいはこれからも変わり続けていくのだから(それは、「それ」が手に入ろうと変わらない)。変化を恐れてはいけないよ、それこそ本当に生きていけなくなるよ。暴露療法をして、今、9ヶ月の逃避に終止符を打とうとしている、それは多分「誰の目から見ても明らかな」今のわいがすべきファーストステップなのだから。その後のことは、また手探りで見つけて行こう。

 

がんばりたい。かといってがんばりすぎてもいけない。アリストテレスの言うように、バランスを大事に過ごそう。

 

 

追記:これから1週間くらい経ちましたが、もうすっかり元気。とりあえず元気。イクラちゃんは弾けたし、ご飯おいしいし、ちゃんと眠れている。ついでに10ヶ月間逃避し続けた外界との折衝もぼちぼち頑張ってる。ほぼ毎日パニックにはなってるけど!笑

 

とりあえず、今はじさつがんぼうはどこにもない。母と姉が一週間遊びに来てくれて、美味しいものをお腹いっぱい食べさせてくれたのでとても元気になった。親には経済的・心理的な負担を強いてきたのに、「なるようにしかならへんわ。ダメやったら帰ってきて、また何でも違うことやったらええやん」と言ってくれて、ありがたい。もし、親が自分以上に絶望していたり、責められたら『がんぼーちゃん』まだいたかもしれない。責める権利があるのに、許して信じて応援してくれて、本当にありがたい。感謝でいっぱい。

 

 

 

4年半のメンタルヘルス治療の歩み・ペースのようなもの【うつ、不安障害、睡眠障害】

 

 

 

3体目やんけ〜!

今日、「あーわいって4年半ほどうつと不安障害を患ってるんや〜」って思うと辛くなってしまった。そんなに長い間治らないもの?と思って。

 

芸能人の方とかで、うつになって半年程度で復業できる方もおられますやん?自分はああはなれなかったのか、と悲しくなったんだと思う。

 

やっぱり心のどこかで「体の病気」と「心 (or脳) の病気」を別物だと思っているんだよ。体の病気を根性で治せ!っていう奴はあまりおらんが、心の病気はどこか自分でも(チートなんじゃないか?嘘なんじゃないか?)って疑いを持ってしまう。「そんな4年も長患いするもんですかねぇ〜?」って心のイジワル子が囁いてくる。

 

それを理性ちゃんが「心の病気も立派に病気やで」って説得している感じ。だからそんなに落ち込むなよ、がっかりすんなよ、自分を責めんなよ、と。メンタルヘルスを患っている他人には「本当に病気ですかぁ〜?」なんて欠片も思わないし、簡単に治らないから心の病は「風邪」どころじゃない重病なんだよ、って言う。自信を持って言うのにね。

 

これも自責傾向の一種なんでしょうね。

 

 

 

でも待てよ。落ち着いて考えると、「4年半病気」っていう考え方も事実に即していない気がしてきた。

 

 

 

ブレット・アスティア兄さんも「クールになれよ」って口癖のように言ってましたし、一旦、クールになって考えてみましょうや。

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より正確には「2年半うつで、2年不安障害」っていう方が正しいぞ……?

 

 

やっぱり、うつはもう寛解していると思う。

 

 

じゃあ正確には4年半でふたつの病気をリレーしたんや

 

 

っていうか、睡眠障害も入れたら、モンスター2体倒して今3体目と戦ってるんですやん。今まで大病も骨折もしたことないと思ったら、いっぺんに来やがったな??

 

vs https://1.bp.blogspot.com/-h0QG-0JLyF8/VcMlcb5dEYI/AAAAAAAAwcQ/Rfaj8u-VDsE/s800/pose_win_girl.png(2年半の格闘の末)

https://4.bp.blogspot.com/-R7qkuOoCs1k/VCIkIbJW75I/AAAAAAAAmkE/pvE5zePq6Tk/s800/monster08.png  vs https://1.bp.blogspot.com/-h0QG-0JLyF8/VcMlcb5dEYI/AAAAAAAAwcQ/Rfaj8u-VDsE/s800/pose_win_girl.png(2年半の格闘の末)

vs https://1.bp.blogspot.com/-WK8-xgaCbxI/WxvKaWuNu8I/AAAAAAABMo8/0_ZSDG_epxIKHm06tZIoRpdqBVmmfqlZQCLcBGAs/s800/sports_boxing_corner_woman_second.png格闘中。

 

 

そして同じようなペースで不安障害も治るという希望的観測を持つならば、不安障害だって永遠に続くものではなく、あと半年以内にはほぼdissipateしてくれるという計算になるんや……ッ!

 

多分、次の6年間のわいにはツイてツイてツキまくる、ラッキーマンみたいな時期が待っているはず(ポジティブ)。

 

 

参考までに、自分の格闘記録(もとい治療の歩み)を記録しておく。

 

 

 

それぞれの病気治療の道のり

睡眠障害

2014年10月。「概日リズム睡眠障害」と「睡眠相後退症候群」を発症。

  • 完全なる昼夜逆転が1年ほど続くも、病気と気付かずに放置。これは悪手でした。必然的に日光に当たる時間が少なくなったことが、うつ発症の一端を担ったと思われる。

2016年2月(16ヶ月目)。初めて専門医にかかって病名診断がつく。

  • メラトニンの処方、睡眠日誌等いろいろ試すものの効果は薄く、昼夜逆転はまだまだ続く。

2017年3月(29ヶ月目)。ミルタザピンの処方で、魔法のように治る。

  • ミルタザピンのおかげで、29ヶ月ぶりに夜に眠れるようになる。現在でも睡眠は後退しぎみなんだけど、体内時計の24Hサイクル(概日リズム)は正しい。多分問題ない。

 

治療の歩みはこちらの記事を参照のこと。

【参照】2年ほど続いた昼夜逆転がようやく治ったときの話【概日リズム睡眠障害】【睡眠相後退症候群】 - 色々やってみる日記

 

ミルタザピンという抗うつ薬についてはこちら。

【参照】ミルタザピン(リフラックス)の効き目と副作用について ー 睡眠障害に抜群に効いたけど、めっちゃ太った - 色々やってみる日記

 

うつ

2015年6月。「うつ」発症。ベッドから1mmも起き上がれない日々が2ヶ月続く。

  • 同年12月まで、うつだと気付かずに一人で苦しんで過ごす。

2016年4月(11ヶ月目)。初めて病院で正式な診断がくだると同時に、重度うつ扱い【急性期】

  • セルトラリン50mgを処方される。1年間の休学開始。ベッドから出れない、ご飯食べない、シャワー浴びない、人と話さない、文字読みたくない状態が同年9月まで続く。
  • 同年11月に「うつの揺り戻し」を喰らい、セルトラリンの量が200mgまで増える。
  • 頑張ったこと:日光浴、食事、ヨガ、『いやな気分よ、さようなら』を読みながら行動認知療法。臨床心理士とのカウンセリング(3週間に1度程度)。この1年間は一度も本・論文を開かなかった。ひたすら自分を休ませること、基礎体力作り、認知のねじれの矯正だけした1年でした。

2017年3月(22ヶ月目)。初めてかかりつけの精神科医ができる【回復期】

  • 信用できる精神科医ができる。セルトラリンが25mgまで下がり、代わりにミルタザピン15mgを処方してもらう。
  • 同年4月に復学。今考えると、この判断は悪手だった気もする。なぜなら2017年は胸を張ってまだぜんぜんうつだったからである。かといって、チャレンジする以外の回復期の過ごし方ってないような気もするし。回復期の難しさを痛感した1年だった。
  • 1日に2時間くらい「頭がしゃっきりして健康な人のように働ける時間」があり、そのゴールデンタイム以外はベッドにいる。ちょっとずつ、このゴールデンタイムが長くなっていくのがわいにとっての寛解だった。

2018年1月(32ヶ月目)。ほぼうつ寛解〜8割程度。

  • 動けない日や落ち込む日もありつつ、そういう落ち込みが長引かなくなる。ゴールデンタイムが1日8時間〜12時間くらいに増える。 

 

『いやな気分よ、さようなら』のコンパクト版(行動認知療法のやり方のみで、抗うつ薬に関する章が省略されているのでお薬についても知りたい方はこちら

 

 不安障害

だいたいどの病気もすぐに気づけないわいだが、こいつの足音が一番静かだった。

 

2018年4月。すっごい不安を煽る出来事が起こる。

  • 出来事自体はスムーズに解決に至ったけど、急性の不安感を連続して経験したことで、気付かないあいだに逃避癖が強くなる。イップスみたいに、やろうと思っているのにできなくなっていく。

2019年2月(9ヶ月目)。初めて自分が不安障害だと自覚する。

  • 精神科医と話したりするも、先生が「とりあえず暴露をやりなさい」という姿勢だったことから、先生に会うと暴露をやらされるというリンクができてしまい、医者に行けなくなる。
  • 不安障害の本を20冊くらい読んで、短期間に暴露療法的なことを詰め込んでやった。でもこれが全く持続力のないもので、むしろ不安の火に大量の薪をくべることになってしまい、地獄の「何もかもが不安期到来」。
  • 家の最寄駅から外に出られなくなってしまう。何もかもが不安で、すべて避け始める。死ぬほどやらなきゃいけないと思っていることができないまま同年11月くらいまで来てしまう。

2019年12月(19ヶ月目)。地獄の不安障害期を9ヶ月ほど過ごし、ようやく意識が外にむき始める。

  • 9ヶ月ぶりに暴露療法を再開。そのためにACTセラピーのワークブックに3ヶ月以上かけてじっくりことこと取り組んだ。おかげで、初めて不安障害を乗り越えられるかもしれないという「トンネルの出口」が見えてきた気がする。

 

うつと不安障害のバトンタッチについてはこちらの記事を参照のこと。

【参照】「不安」と「うつ」は分けて考えた方が良いと思う、その理由について。 - 色々やってみる日記

 

9ヶ月ぶりの暴露療法はこちらの記事を(ACTワークブックの情報もこちらに)。

【参照】9ヶ月ぶりに暴露療法をやってみた記録 ①メールから情報取得編【不安障害の治療・ACTセラピー】 - 色々やってみる日記

 

おわりに

ACTセラピーの本に、「不安障害を乗り越える辛さは、もしかしたら変態する辛さなのかもしれない。あなたは今、サナギの中でどろどろに溶けて一生懸命蝶になろうとしている。あなたの辛さは成長痛なのかもしれない」という一文があった。

 

今月も今日も不安障害の影を日常の端々に感じて生きているし、突発的に辛くなる瞬間はある。でもうつも不安障害も、乗り越えるたびに自分がちょっとずつ優しくなったり、寛容になったり、ポジティブになったり、勇敢になっているのは分かる。まだ勇気を出せないけど、人に頼る必要性、人と話す必要性もひしひしと感じているし、その方向に一歩踏み出そうとトライしてる。1日一滴くらいのペースだけど。この辛さは成長痛だと思う、わいは!

 

だから諦めないし、この4年半は「毎日1滴ずつ変態した努力の日々」だと認識を新たにしていくお。次の6年間のわいはワッチャマ・グランディーバになるんだからさっ!イジワル子も、わかったわねっ!

 

 

 

自由な国に住んでいた頃の話

 

あたいには人生の中で一時期だけ、めちゃくちゃ自由を謳歌した時代があった。それが高校2年の夏から高校を卒業するまでの1年半。

 

わいはその頃、とある国のど田舎に交換留学で行っていた。ちなみに15年くらい前なので、パソコンはでっかかったし、ケータイは白黒で機能は通話とショートメールだけだった(日本の携帯はもうちょっとI-モードとかできてた)。音楽はCDプレーヤーの時代で、Akonとか流行ってた(日本はMD全盛期)。

 

住んでいた町の人口は400人くらい。隣町に行くには車必須。というかどこに行くにも車必須。町にあるのはカフェ2件、スーパー1件、月に一度映画上映してくれる公民館が1つ、土産物屋1つ、ガソリンスタンド1つ・・・みたいな場所だった。学校は違う町にあって、近隣の5つの町から生徒が通ってくる。通学手段はスクールバス一択。1時間弱かけて、あちこちから生徒を拾って学校にたどり着く。

 

学校には小6から高3までがごちゃ混ぜに通っていて、基本的に先輩や後輩という概念はなかった。小6と高3がタメ口で話すのは普通で、年齢差を越えた友情がありふれていた。ちなみに性差もほとんど意味を持っていなくて、男女の友情もありふれていた。

 

年齢差でいちばん驚いたのは、わいの同級生(高3)で常に首席だった背の高いノコノコみたいな男子が、小6の女の子とおおっぴらに付き合っていたこと。しかも、卒業寸前にノコノコの親友(こいつもわいと同学年)が小6の彼女を奪ってしまって、ど修羅場に。魔性かよ!!ちなみに彼女は背は高かったけど、ツインテールとかしていたし、わいからすれば普通に幼かったんだが……

 

 

 

始業ベルが鳴ったら授業に行く、週に一度はアセンブリーがある、みたいな最低限の学校としての枠組みはあったけど、それ以上のルールはなかった。校則ゼロッシーふなっしー。

 

地域柄か悪ガキが多く、中坊が学校でマリファナ吸ってることもあった。ガキに「見張りしといて!」とか言われる。断る日もあれば、暇つぶしに見張ってあげることもあった。免許がないのに車運転したり(車社会だから、これは結構あった)、交通量が極端に少ないから百キロ出したりドリフトしたりも普通だった。一度ホストファミリーの孫(16歳)に学校まで車で送ってもらったことがあって、猛スピード+ドリフトを挟みながらの送迎だった。怖がると相手の思うつぼなので、ポーカーフェイスでいなければならない。

 

ヤンキーっぽい人に絡まれたときに、焦らずに何もなかったかのように接するという処世術はここで身についたものだと思う。

 

わいは以前の記事で触れたように、大人に怒られることを極端に恐れる子供だったけれど、ここに来て弾けてしまった。喫煙、飲酒、マリファナ、喧嘩こそしなかったけど、校長先生に「YOYO 校長!お元気してる?」と声をかけ(校長は笑顔で返事してくれる。漫画かよ!)、同級生に「お前の口を洗いたい」と言われるほど口汚い英語を話すなどして、本当に幸せな時間を過ごした。

 

最初の3ヶ月ほど英語が分からず一言も話さなかったメガネのアジア人が、気付いたらリトルギャングスタワナビーに成長していたので、同級生にはクレイジーアジアンという毒島メイソン理鶯のMCネームみたいなあだ名をつけられてた。

 

全ての生徒がワルだったわけじゃなくて、大学進学するやつも少数いれば、オタクも、いじめられっ子も、エモもギークもナードもいた(アメリカのようなスクールカーストはない)。 多分中学までが義務教育で、高1、高2、高3になると徐々に学校に残る奴が減っていく。「学校はほどほどで終了して、働いてお金を稼ぎたい」という子が半数くらいだったように記憶している。

 

 

 

すごく記憶に残っているのは、ある日の数学の授業。わい以外は全員男、トータル7人くらいの少人数クラス。この学校では珍しく全員大学進学を視野に入れているような真面目な子の集まりだった。数学の先生は鷹揚そうに見えてチクチクきついことを言うタイプの人で、自由を謳歌していたわいにとっては、幼き頃の大人への恐怖心が若干顔を出す相手だった。

 

その日は先生が少し遅れていて、誰かが「今日いい天気だなぁ。外行くか」と言い出した。そしてホワイトボードに大きな池と魚と釣竿の絵を描いて、「天気がいいのでみんなに釣りに行きます」と書き置いて本当に外に出て行ってしまった。みんなで外でワークブックをしていたら、10分後くらいに所在を突き止めた先生が笑いながら出てきて、その日はそのままお外で授業を続けることになったの。あのときに「いたずらって、しても別に怒られないんだ!」というブレイクスルーをひとつ経験することができた。

 

ちなみに、数学のクラスはカリキュレーターの使い方がわからなくてずっと詰んでた。今なら数学が分からなかったらネットで検索できるけど、あの頃はわざわざ日本から参考書を送ってもらわなくちゃいけなかった。

 

 

もちろん大変なこと、辛いこと、嫌なこともあったけど、それを補って余りある自由がそこにはあった。高校を卒業してすぐは、当然のようにあの国に骨を埋める気でいた。でも大学に行って欲しいという母の願いがあったり、そこから想像以上に勉強にのめり込むという事態があったりで、わいの人生の道はあの自由な場所とは袂を分かつてしまった。これから先の将来は分からない。

 

生まれてくる国を間違えたと思うくらい、わいはあのど田舎で水を得た魚になった。今でも特別な気持ちを持っているのに、なんとなく移住とかに踏み切る気になれないのは、この年になって、あの自由をティーンエイジャーだった頃のように愛せるのか自信がないからなのかもしれない。あとは環境要因ってマジですごいなって話。

 

 

 

自由になりたい【グレーバーの『官僚制のユートピア』を読み始めての雑感】

 

デイビッド・グレーバーの『官僚制のユートピア』をちらちら読んでいる。主題を簡単にまとめるなら以下のような感じ。

 

今を生きる私たちは、過去のどの世代よりも多くの時間を事務作業に費やしている(レポートを書いたり、申請書を書いたり、報告書を書いたり、プログレスレビューを書いたり)。この裏側にあるのは官僚制のロジックとも言えそうな、生産性のための画一的な人間統治の在り方である。

 

1960年代の社会運動、研究者、小説家たちは、そのような官僚制による生活の支配を問題視していた。一方で、現在ではほとんどの人間がそれを仕方がないものとして受け入れている。一体どうしてこういう事態に至ったのか?

 

そんな内容なのかなと思う(まだ1章読んでるところだけど)。

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官僚制の裏には、必ず何かしらの強制力が存在している。強制力なくして、人はペーパーワークに従わない。どんなにバカらしくても、こんな書類に何の意味があるのかと思っても、それに黙って従わないと何らかのペナルティが発生するから、わいらは諦めてそれを受け入れる。

 

 

 

例えば、わたしは海外在住で日本のクレジットカード(Visaカード)を使って授業料の支払いをしていた。学生なので使用できる上限額が月10万円と決まっていて、授業料はそれを上回るので、半年に一度サービスセンターに国際電話をして上限を上げてもらう必要があった。Visaカードは海外在住の顧客の上限引き上げの手続きをネットでしてくれない。例えば親に委任することも認められておらず、わたしは必ず国際電話で上限引き上げをする必要があった。もちろん、第三者による悪用禁止等、そこに正当な理由が全くないとは思っていない

 

でも電話すると、いつも驚くほど本人確認なんてイージーピージーなの。ご本人様によるお電話でしか受け付けません!という前田さん (ちびまるこちゃん) ばりの頑なさと裏腹に、実際にご本人様がおかけすると、その電話には「りょりょ!おっけす!」くらいの意味しかない。カード会社にとって大事なのは「本人が電話してきた」という建前であって、そこに「本当にご本人様でしょうか?」という類の意味はほぼ存在していないように思える。カスタマーを守るための手続きというよりは、カード会社を責任から守るための手続きだと思うんだけど、違うんだろうか。

 

官僚制はカード会社、銀行、保険、年金、企業、大学と至るところに存在していて、「書類をミスなくできなかったら、補助金出しません!サービス利用できません!この出張を許しません!」みたいな形でわたしたちの生活を圧迫してくる。その割に、ほとんど全ての書類は「こんな書類になんの意味が?」というような内容のものでしかない。わたしは大学で何をするにも書類の提出を義務付けられているけど(倫理、進捗、経費、休学、etc.)意味がある書類だなと思ったものなんて正直ひとつもない。書かなきゃいけない内容は、妥当というより恣意的。書類は大学側の管理の都合のために存在するもので、生徒や研究者のために存在するものではない。

 

わたしは現在(軽度かな?の)メンタルヘルスを患っていて、多分だけどもし日本に住んでいたら精神障害者保健福祉手帳を取れたかもしれない(手帳を取るのにも、当然のように書類申請が必須)。

 

思うことが2つ。

 

ひとつは、メンタルヘルスを患うようになって、ペーパーワークが本当に苦手になったということ。でも社会全体がペーパーワークによって統治されているので、書類が読めない・書けないことは多くの場合「自己責任」という形で本人にのしかかってくる。

 

もうひとつは、わいは昔は書類仕事もそれなりに黙って従えたけど、例えば障害がある人、老人、引きこもり、病人、様々な理由でペーパーワークが苦手な人間ってどうやってこの時代を生きているんだろう。ものすごく生きづらい思いをしているんじゃないのかなということ(あたいは生きづらい)。

 

だからグレーバーが『官僚制のユートピア』みたいな本を書いてくれるのはとても重要なことで、現代人が1960年代〜70年代初頭に社会運動から学ぶべきことは多いんじゃないか。頭の片隅に「そう言えば何でこんなに従順に書類仕事による生活の支配を許しているんだろう?」って疑問が生まれるのは悪いことじゃないと思う。書類をミスったらツケは自己責任っていう社会の在り方って、生産的 (エフィシエントな人間) というモデルに当てはまらない人にとっては常に罰がチラついてようなもので、漠然とした不安感の温床な気もする(軽く書いてるけど、わいにとっては本当に切実な問題)。

 

いつも通り、「今すぐわたしがマルクスみたいに社会を変えるぜ!」っていうわけでは到底(x1億)ない凡人だけれど、心の中にいつでも反-官僚制を飼っているし(全ての官僚制を廃止しろ、っていうわけじゃなくて、バランスと妥当性を再考していこうよという願い)、どうにかして生活に「自由」を取り戻せる方法をぼんやりと考えたりしている。

 

 

 

さくらちゃんの無敵の呪文【絶対だいじょうぶだよ】

 

先ほど遅ればせながら今年の目標を書いていて、色々あるなかに「お金を稼ぐ。最初は月に5万円からでも良い」と書いた。そしたら直後に姉からtwitterのDMが来て、「アタイが働いている団体で、月5万円で英語の添削指導してくれる人探してるんやってー。どう?」という内容でびっくり。タイムリー!ちょうど5万!少なくとも3月までは始まらないので絵に描いた餅になる可能性もあるけど、それでもきっちり自分が想定した額で驚いてしまった。

 

でも本を正せば、姉がこの団体で働くようになった経緯は私なのだ。私は10年以上前にこの団体で無償ボランティアをしていた。姉は2018年の10月時点では、悪化した躁うつ病で新卒から勤めてきた会社を1年以上休職していた。この時期の姉と今の私はすごく似ていて、会社との話し合いが怖い、手紙が届くのが怖い、復職は考えられないと、不安でいっぱいで一歩も踏み出せないような感じだった。でも姉は最終的に(めちゃくちゃ悩んで不安なまま)仕事を辞めて、仕事を辞めたちょうどのタイミングで、わいがボランティアをしていた団体から手紙が届いた。

 

「スタッフが寿退社することになって、新しいパートさんを探しています。一般公募を出す前に、OBGさんやボランティアスタッフさんのご家族やお知り合いに募集を出しています」という内容だった。ちなみにこんな手紙が来るのは15年で初。

 

 

 

「応募しようと思うんだけど、わっちゃまちゃんは良い?」と聞かれて、「当然だよ!私は関係ない、好きにやってよ」と答えた。退職するスタッフさんとは友達だったので、ご結婚祝いメールでさりげなく姉が応募することを伝えてみたりした(わいはカッコつけなので本当はこういうことできないタイプなんだが、「なりふりかまうな!全力で取りに行け!」という母の意見に今回は乗っかった)。そして姉は躁うつがあることも面接でお話して、そこで仕事復帰を果たした。週に三日〜四日の労働というのも、メンタルヘルスで休職していた身からするとちょうど無理のないスタートだったように思う。

  

パートを始めてからの姉は、見違えるように元気になっている。本当に、見違えるように。今までとは全然違う職場だけど、10年ほど企業に勤めた経験はものすごく役立っていて(職員の方たちよりもメールの返信、アポ取り、交渉ごとが慣れていて早いみたい)、あと若人をたくさんサポートできるのも楽しいみたい。ダイレクトに人の役に立っているのが、姉を元気にしてくれるんだと思う。

 

もちろん世の中に変わらないことはないから「絶対の安定」なんてものはないとメンタル予防はしているけど、根拠のないポジティブ観を持つのは大事なんじゃないかと思う今日この頃なのだ。これは信仰に近い気がする。信じるものは救われる的なやつ。カードキャプターさくらちゃんもこれを「無敵の呪文」と言っていた。

 

 

絶対、だいじょうぶだよ。

 

すべてうまくいく。