色々やってみる日記

粘土フィギュアの製作ログ、うつや不安症の話、論文執筆やResearch Studentのあれこれについて。

【長文注意】千空だっておぱんつ要員だったかもしれない。

 

一連の少年漫画におけるホモソーシャリティとジェンダー表象に関して、誰に向けたわけでもないけど、自分の考えがいくつかあるなと思ったので記録しておく。当然どれも暫定的な意見です。

 

考え始める直接的なきっかけになったのは、読者登録してた人が書いた「ジャンプはホモソーシャルか?」という記事(まんまのタイトルじゃない)。ホモソーシャリティはちょっと誤読してる記事だったけど、自分の視点から体系立てて書いてくれていたので、その人とわたしの認識の違いが分かりやすくて、ありがたかった。

 

具体的にどう認識が違ったのかを説明してみようと思う。あ、批判したいわけでも、交流したいわけでもないので、そのブログは引用も紹介もしない(盗用にならないくらい抽象化する)。

 

 

 

ホモソーシャリティ:ただの絆じゃなくて社会的男性優位のメカニズム

 

この方はホモソーシャリティの定義を知るためにwikipediaを活用されてた。

ホモソーシャル (homosocial) とは、恋愛または性的な意味を持たない、同性間の結びつきや関係性を意味する社会学の用語。友情師弟関係、メンターシップ、その他がこれに該当する。対義語であるヘテロソーシャルは異性との同様な関係を指す。2人以上の人間が結ぶ関係は、ホモソーシャル(同性と)、ヘテロソーシャル(異性と)、バイソーシャル(両性と)のいずれかでありうる。

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%A2%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB

 

わたしはこの定義には抜けがあるという認識で、それはセジウィックが意図したホモソーシャルな欲望、ホモソーシャルな関係は「個人間の絆」の話だけじゃなくて「社会的な階級/階層の問題」だということ。実際は「男同士の絆というシステムが社会の支配的地位を男が占有することを可能にしている」という意味だったと認識してる(私も誤読だったらごめんなさい)。

 

この「男の絆」システムが機能するとき、そこには常に女性の客体化とホモフォビアが構造的に組み込まれているという指摘。逆説的に言えば、「性的欲望の対象としての女性の差別化(差別じゃなくて、差別化)とホモフォビア」を必要としないなら、それは個人間の男同士の絆ということになり(ブログの人が想像してたホモソーシャリティ)、批判的文脈でのホモソーシャリティではない。

 

ブログの方は「少年漫画の男主人公は、ときおり自分がゲイじゃないことをアピールするためにホモフォビックな姿勢を見せたり、女性を客体化することで絆を深める」という観察をされていて、ここまではわたしも同意だった。でも後半の意見には賛同しかねて、それは「でも少年漫画は男の子ががんばって努力・友情・勝利を見せれば成立するわけで、別に女子へのセクハラを絶対に必要としているわけじゃない=少年漫画は必ずしもホモソーシャルを必要としていない」という認識だった。

 

そうかなあ?

 

より正確には「女の子へのセクハラは必要じゃないかもしれなけど、女の子の客体化は必要としがちなんじゃないかな?」って感じ。客体化っていうのは言い換えると、女子が「自我を持ったひとりの人格としてではなく、男同士の絆をより密に成立させるための装置的なキャラとして生み出されてないかな?」ってこと。

 

個人的には少年漫画におけるヒロインって圧倒的にそうだと思っている。少年漫画のなかで、冒険をする少年たちと守るべき存在の女の子という図式は何度も何度も再生産される(守ることで俺たちは強くなる、俺たちの冒険は必要とされる)。これはよくできていて、守るべき対象が男だとしたら、ホモソーシャリティを保持するためのコードに抵触してしまう(男同士の絆が成立するための条件としての「女子という他者の共有」と「ホモセクシュアルとヘテロセクシュアルの線引き」がどちらもあやふやになってしまう)。百歩譲って歳離れた弟が庇護対象になることはあっても、同い年の男を「守る」(一緒に戦う、ではなく、守る。ヒロインポジションに置く)のは「なんかおかしい」のでアウトになる。

 

セクハラからそれくらい視点を広げると、少年漫画って守られる地位を受け入れる女子がいないと成立しないように思う。もちろんすべての少年漫画が、ってわけじゃないけど、大多数が。

 

 

 

漫画のなかのホモソーシャリティ

『彼方のアストラ』は読んでないからわかんないんだけど、『Dr.STONE』はホモソーシャリティの仕組みを見せてくれる教科書みたいな漫画だと思いながら読んだ記憶がある。*1

 

男同士の絆

例えば。(1)Dr.STONEで崇高なものとして描かれる絆はほとんど全て (98%くらい) 男同士の非性愛的な絆である。読者のエモーショナルな反応を期待する形でドラマチックに描かれる絆は(大ゴマだったり、演出的なものだったり)、ほんとうに徹底して男同士の絆。例えば2巻の、千空と大樹が一旦お別れするシーン。「言葉はいらねぇまたな相棒信頼してるぜ!」的なシーンに、杠ちゃんという女子キャラが「男同士はドライですな!」という丁寧な説明まで加えてくれる。あるいは千空とクロムの友情、千空と司の友情(司なんか敵だったのに)、千空と親父の絆、極め付けは千空+クロムとは孫くらい年の離れたカセキじいちゃんの絆。このときも千空とクロムがわざわざ「年が離れてたって俺たちは友達だろ?」と友情を言語化してくれる。

 

今あげたようなシーンは適当に抜粋したシーンじゃなくて「ここ!今が友情、感動の感じ所です!!」ってちゃんと演出されてるシーン。一方で、杠ちゃんとかコハクと特定の男子キャラの絆という見せ場は気付いた限りなかったはず(そして女子同士の絆もほぼなかったはず)。読んでた時のevernoteには「途中でじいさんとは友情が成立するけど、その時点でまだ異性とは友情成立のシーンがないのが徹底しててすごい」とメモしてた。しいていえばスイカは「役目を果たす」みたいなシーンがあるけど、Dr.STONEにおけるホモソーシャリティの徹底には信頼があるので、スイカと男キャラに友情が成立しそうなのはスイカが二次性徴を迎えていない子供だからじゃないか?と疑ってしまう。数年後、成長したスイカは十中八九今と同じポジションじゃなくて「お、お前ももうそういうの気をつけろよ女なんだから!」っていうポジションに移行すると思う。

 

精神的・肉体的に別物という男女の描き分け

(2)女子キャラの描き分けもすごい。初めて杠ちゃんを見た時は衝撃が走った。「杠ちゃんと千空/大樹の間にはホモソーシャルな絆と同等/同質の友情は存在しえない ー なぜなら彼女は本質的に男とは別の精神構造・肉体構造の持ち主だからー」という説得のためなのか、杠ちゃんは少年漫画におけるヒロインを煮詰めてできたような表象なの。きゃるん♪って音が出そうな外見、現実の女性が絶対に言わないであろう「はは〜ん!さてはなんたらですな??」という口調、男子キャラが知力・武力・体力・マインドコントロール等を担当するなかで手芸を担当、司に人質に取られたときの自己犠牲精神、顔を歪めることもなくただ女優のように美しく涙を流す姿。ちなみにこの「女優泣き」はDr.STONEのなかで女性だけに許された表現。美しく、ただはらはらと涙を流すだけ ー という行為を許された男子キャラクターは出てこない。1巻の杠ちゃんが衝撃的だったから2巻で戦闘要員+ハキハキのコハクが出てきたときは「ああなんだ」と一息つきかけたけど、結局コハクも絆の輪には入れてない不思議。

 

ヘテロセクシュアルとホモセクシュアルの境界線警備

(3)Dr.STONEの一巻を読んでいて、いきなり千空と大樹がヘテロセクシュアルとホモセクシュアルをくっきり区別するためのセリフを2回も口にするので驚いた。はっきり覚えてないけど、「男ふたりじゃアダムとイブになれねーだろ」みたいな発言と、「男を褒める男はホモか策士のどっちかだ」みたいな発言。読んでいるこっちからすると「そんな話今してた?」と寝耳に水だった。なんのためにこのセリフが二度も配置されたんだろう?と考えると、Dr.STONEに頻出する男同士の絆がホモセクシュアルじゃなくてホモソーシャルなことを表現するため?と思った。作者が明確にそういう意図を持っていた、というんじゃなくて、ホモソーシャリティという仕組みがホモフォビアを必要としていることをわいらは無意識的に知ってる。それが表現に出たって感じなんじゃないかな(これはあくまで推測)。

 

千空の設定は科学者。科学者や研究者って一般通念を疑ってなんぼの存在だと思うのに「ホモ」なんてえらく俗っぽいね。むしろ生物学的、歴史的な知見から、現代人のジェンダー観が本質的なものでは無く偶発的でテンポラリーなものであることとか示してくれてもええねんで?もしかしたら純粋な読者は「このホモ発言は『俺はホモじゃないよ、君はホモかい?差別する気はないけど、俺ヘテロだからそこんとこよろしくね』という意図だよ」と擁護してくれるかもしれないけど、現実社会で(別に聞かれたわけでもない状況での)「おれはホモじゃねー or お前ホモかよ」が、まったく差別心を含まない「おれはヘテロです」を意味するなんてことありえなくなくなーい?*2これは誰に対するアピールなのか。仮に同性が好きだったとして、なに?って思うけど、Dr.STONEの世界では男が全員異性愛者なのがすごく大事な前提なんだ。少年漫画なんだから当然だろ!って思うかもしれないけど、例えば『幽遊白書』の仙水と樹はわざわざ「心配するな、俺たちはホモじゃない」なんて言わない。二人の絆は曖昧で、もっと複雑で全然良いという姿勢。

 

上記のようなこと(まぁ他にも科学王国の運営を担う5人のブレーンが全員男なこととか、女は美貌を磨くことで男を手玉にとって戦うわっていう『さよならミニスカート』が意識的にやった表現を無意識的にやっていることとか)ぜんぶひっくるめて、Dr.STONEは<女とは、男とは>のコードでがちがちに固められてるし、ホモソーシャリティが万全に機能している漫画だ、というテンタティブな結論に至った。現状の話、もしかしたらタランティーノの『デス・プルーフ』みたいなどんでん返しがあるかもしれない。

  

 

  

三次元の読者に向けた、男同士の連帯へのお誘い

ここまでだと「Dr.STONEのストーリー内部がホモソーシャルになっていたとして、それはストーリーを優先させた結果の偶発的なものである(偶然ホモソーシャリティとやらと一致した)」という主張が可能かもしれないけど、そこにはそれを阻むおぱんつがある。

 

Dr.STONEではときおり、思い出したように女子キャラのおぱんつが描かれてた。わたしが最初に気付いたのは、女子キャラたちが樽に入ったぶどうを踏んでワインにしているシーン。なぜか知らないけど、女子キャラの服の丈が短くておぱんつが丸出しになっていたのだ。そのあとも少なくとももう一回はなぜかおぱんつが見えるシーンがあって、それは先述の戦闘要員コハクだったと思う。ものすごーーーーく好意的に解釈すれば、ワインを踏む=足元が濡れる=裾をまくる=パンツだったと主張できるかもしれないけど、その必然性だけで描かれたぱんつだと主張するのは苦しすぎるだろう。

 

これもストーリーラインを優先させたら生まれた偶発的なイラスト?もしくは何かしらの必然性が生んだおぱんつ?いや。これは多分、作者から読者へのちょっとしたぷれぜんとおぱんつだと思うのね。「男だったらおぱんつにやっとしちゃうよね」とか「あ、ここにおぱんつがあったら、読者は喜んでくれるかも」というような意識*3。そのとき、創作のなかで偶発的に発生した(と仮に主張してみた)ホモソーシャリティは、ストーリーの中と外で握手する男同士の絆になる。それは漫画から三次元の読者に向けられた、「俺たちはこの価値観を共有してるよな」っていう男同士の連帯へのお誘いだから。

 

 

「普通」という装置の製造に、メディアや漫画も関わっている。

 

さて、わたしがそこそこ確信を持って書けるのはここまで(少年漫画にホモソーシャリティは結構存在する)。こっから先の「それに対してどう感じ、何を要請したいか?」という問いには展開の選択肢が種々ある。この記事ではとりあえず「不快なら読むな、が全員できるか?」及び「マンガは『普通』という多数者の言説作りに無意識的に関与することもできるし、意識的に関与することもできる」という点から展開してみる。

 

大人は意味を分析できる(かもしれない)、子供は意味を貯め込んでいく

わたしは子供の頃『烈火の炎』が大好きだったけど、なんで時折風子ちゃんや陽炎かあちゃんの胸が揉まれるのかサッパリ理解していなかったし、気にも留めていなかった。でもそれは当時のわたしがスイカだったからで、二次性徴を迎える頃に「なるほど、体に注目される性が存在する」という遅れた理解が訪れた。ははーん、だから土門や烈火の胸は揉まれないけど、風子ちゃんや陽炎かあちゃんの胸を揉まれていたんだなと理解する。子供の頃の自分にわかったのはジェンダーコード云々ではなく、ストーリーが面白いかどうかだけ。ストーリーが面白けりゃ読むし、つまんなきゃ読まない。じゃあ子供にはジェンダーコードは無関係かというと、それは大間違いだと思う。ジェンダーコード云々は「面白いかどうか」の判定には関係なかったけど、「社会ってこういうもん」というメッセージをどんどん与えていくんじゃないだろうか。そして子供はその情報を選別する術は特に持たないで、自分の無意識にとりあえずただ蓄積させていくんじゃないだろうか。

 

もし子供のわたしがDr.STONEを読んでいたら、上のような理屈臭い分析は、しないんじゃなくてできない。「この表象をどう感じるか」自問、分析できるのは、大人が社会的な価値観・傾向・社会の見方を十分に内在化させているから。ブルデューが言った「自由で型にはまらない詩を書くためには、まず文法を完璧に理解する必要がある」のようなこと。文法の蓄積がすでに一定あることが、分析ができる条件になる。大人の価値観だって増えたり、変わったり、強化されていくから、メディアは大人の文法本にも一滴を落としているんだけれど、それはこの記事では一旦置いておく。

 

大人は、特定の漫画のジェンダー表象がストーリーを読み進められないほど嫌なら、その判断をして読まない選択ができる(『彼方のアストラ』の作者さんが言っていた「不快だったら読まなくていいです」ができる)。けど、子供ってそれができるだろうか?ストーリーが面白けりゃ読んじゃうんじゃないんだろうか。

  

 

漫画を読んで「少年/少女」になっていく可能性

私はhiho kidsというyoutubeチャンネルが好きで、コウジというイラストレーターに説明して子供たちが将来の伴侶を描いてもらう!という企画があった。ひとりの女の子は自分の伴侶は「いちばん仲良しの女の子!」と答えたし、ひとりの男の子は「性別なんてまだわかんない。でもアストロノーツの格好をしたサメだと思う!」って答えてた。

www.youtube.com

 

子供の世界って、ほんとうにそれくらいワイルドなのかもしれない。社会の見方がまだ安定していなくて、いろんな目線から想像力を持てる子供たちが、少年漫画/少女漫画/テレビ番組/youtubeを見て「男が男を好きなのはホモ」とか「男は女の子の体がだいすき」っていうメッセージを受け取っていく。「国の運営は男だけでやってる」「男の子は女の子守ってあげる」「女の子が戦うときは女の武器を使う」「女の子はおぱんつ見えてる」「男の子は泣かない」「男の子の友情っていいな」という情報が一滴一滴蓄積されていく。読む漫画によっては「スカートはかない女の子でてきた(さよならミニスカート)」とか「男だけど女?女だけど男?(レベルEの幹久今日子)」とか「主人公めっちゃへなちょこ(エヴァ)」みたいな情報もちょっとずつ蓄積されていく。

 

わたし個人の経験でいえば、ジャンプとかサンデーとかガンダムとか見て育って、小・中学生のときに切実に「女の子は冒険する資格がない」と思っていた。もしくは冒険できても綺麗と両立してないといけない=セーラームーンやレイアースにはなれても、浦飯幽助にはなれないと思ってた。自分の周りに同性愛者もいなければホモフォビックな発言をする大人もいなかったけど、19歳のわたしは「LGBT?ご自由にって感じだし差別はする気ないけど、わたしはちがうよ」ってことを周知しないと不安だと思ってた。*4

  

 

 

ホモソーシャリティだけじゃなく、わいらがメディアから学ぶ「社会とはかくあるべき」と「社会とはかくあることが自明である」というメッセージにはかなり影響力がある思ってる。 そういう意味で「少年に向けて描いている」という説明には認識の不十分さを感じる。少年漫画の読者は最初から「少年」だったわけでなく、あなたの描いた漫画を読んで「少年とは何か」という価値観を蓄積していく。だとしたら、漫画家には「ストーリーが面白いか」だけじゃなく「社会にどういう価値観を育て、強化し、あるいは挑戦していきたいのか」も考える責任がないだろうか。

 

幼児だけじゃなく、厨二病とか言うくらいだから、文法がそこそこ揃うのってけっこう遅いという認識。このくらいになるとベーシックな文法は揃い始めてて、今度は意味を強化したり(やはりこういうものだ)疑ったり(なんだか目新しい)していく。入ってくるものの種類や量は様々だけど社会的な傾向は絶対にあって、「普通」の合意が形成されていく。「普通」はシンプルに人数が多いという話で終わらず、普通だから正しい、普通だから疑わなくていい、マイノリティは少数という意味でなく異常、みたいな多数者の言説を生み出す装置になったりする。

 

ただ同性に恋をするという志向に、蔑んでいいという意味を与えたいか*5、男の子を強くたくましい冒険者として描くためには守られる役割を女の子に担わせていいのか、女の子がおっぱいとぱんつ丸見えでワインを踏むとうきうきする、と描く前に、ほんの一瞬でも将来おっぱいとぱんつと関連付けられる性への逡巡があったか。「少年がそれを好むからストーリーにした」んじゃなくて「自分のストーリーを読んでそういう少年が生まれる」のだとしたら。そのとき、女の子や同性愛者は同じ社会で生きていくから無関係じゃない。男同士の絆はホモフォビアと女性の客体化を伴う限り支配的メカニズムだということを知っておく義務は、男同士の絆を描くものにないか?

 

※いちおう注釈をいれておくと、わたしが言いたかったのは「Dr.STONEの世界観は内的なホモソーシャリティが徹底されてる」ということと、「ホモソーシャリティが徹底されているということは、そこに女性の客体化とホモフォビアが内在している」ってふたつで、それ以上のことはない。わたしは自分なりの分析ができるから読みたくなきゃ読まないし、カリカチュア的な表象がどれだけこの先も一貫するのかにも少し興味がある。

 

また「作品内ですごく<女とは、男とは>が意味を持っている」ことと「本筋のストーリーラインの面白さ」は別物たりえると思ってるし、そういうエレメントを天秤にかけて続き読みたいかどうか決めてる。ただ、もし分析能力がなかったとして積極的に内在化させたい意識ではない。いやでも科学ダイスキッズにはなるかもしれなくて、やっぱりそういうポジネガ評価は画一的な指標に頼らず、複合的要素のバランスとして成したいという個人的な意志。Dr.STONEが特に見本的なのは包括的なホモソーシャリティであって、もっと露骨に女性=性的イメージを強化してる少年漫画いっぱいあるし。あと『アイシールド21』好きだったし。最後まで読んでないから帰国したら読み直したいしィィ!つまり別に作者が好きとか嫌いとかそういうことではない。PERFECT HUMANなどいないのだから。

  

 

 

意識的にやってない表象に内省を促したい

誰かに届けたいかどうかは別として、そういう一連のことを考えた結果、わい個人がひっそりまとめた願いは「それぞれの作者が意識的にやってるわけじゃない表象部分に内省を促したいな」って感じ。面白いストーリーを描くっていう仕事の裏で、人間の価値観を育てる一滴も作ってるって認識。

 

「こういう価値観を育てたい」っていうそれぞれが考えたGOODは、個人的には多様な方が良い。それが結果的に子供に多角度から社会・常識・価値観・ジェンダーetc.を理解するための文法を与えてくれると思うから。10冊読めば10冊分の価値観が蓄積するからいいじゃんっていう見方もあるけど(ジャンプには女性が主人公の『アクタージュact-age』があるからいいじゃん、みたいな)、結局それぞれの人間が作り上げていく文法本は「何に触れたか」に依拠する偶発的なものになるけど。たった一滴だとしても、自分が入れるメッセージは内省がないよりある方が思慮深いに決まってる。

 

またhiho kidsの例を出せば、「教会のゲイ治療セラピーに強制入所させられた男性とこどもたちが会話する回」があったけど、出てくる子供はみんなpolitical correctnessをマスターした画一的な視点の持ち主じゃかった。

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「自分は信仰深いから同性愛には賛同できない。でも身内や友達にゲイはいて個人の選択にリスペクトはある*6」って少女も出て来れば「僕は信仰があるけど、神様が僕に与えてくれたのは選択肢だから、嫌うことより人を愛することを選びたい」って少年も出てくる。

 

これが全員「なんてひどい話なの!信じられない」という態度なら、そこに思考とか他者を理解しようとする努力があったのか疑ってしまう。だから何らかのコードを避けているから安全な「フェミ漫画」なるものが増えてほしいわけじゃない(自発的に生まれたフェミ漫画は別だよ、作者が内省を実行してみた証だから。ってかフェミ漫画ってなに?*7。みんなが表象の問題と向き合い、内省的になってたどり着いた着地点の方がずっと意味があるだろう。いろいろ逡巡した結果に描きたいのが「冒険する少年と守られるヒロイン」ならば、わたしはそれも読んでみる。

 

もし漫画家の仕事の定義が<面白いストーリーを描くこと>ならわたしの要望は時間外労働的なのかもしれないが、わたしは作者の世界観は尊いと思ってて、他人には手が出せないから内省は作者が行うしかない。あるいは、漫画家さんが作品の世界観を作り上げるのに全力投球できるように、内省チェックを編集さんが担ってもいいかもしれない。その際、編集部が全員シスジェンダーでヘテロセクシャルの男性であることは、うーんだからあのトイレのマーク面白いと思っちゃったの?って感じで、現状期待感は持ってないの。ジャンプ至上主義にもネガ要素・ポジ要素のバランスで見てる。

 

そんな風に考えると、想定外の読者からの「こういう表象が嫌だった」というフィードバックは、作者の筆をコントロールしようとする作品・人格批判というのじゃなくて、「正直そういう視点は意識してなかったかも」っていう内省の契機になりうる。フィードバックの中にはあまり根拠なく作品・人格批判が強めのものと、根拠があって作品・人格批判が強めのものと、もう少し感情と距離をとって理由を説明して理解してもらおうという意図のものがあるだろう(2と3の間ははっきり分断されているわけじゃなくグラデーションかもしれない)。それを全て一緒くたに「表現の自由の侵害」と遮断するのは大雑把な反応で残念だ。

 

もちろん少女漫画も

これは少年漫画にだけ思うことじゃなくて少女漫画にも当てはまることと思う。わたしの中身はあまり少女漫画でできてないから語るほどの視点の蓄積がなく、結果として少年漫画ばっか取り沙汰してごめんだお。でも少女漫画家の楠本まきさんが問題提起してるような動きは少女漫画にもあるみたい。

 

その頃主流の少女漫画は学園モノで、特に取り柄もないしパッとしない主人公が、何かと男の子に尽くして、その優しさ(?)にほだされた彼の心を射止めてハッピーエンドというような話が多かったんです。私は、こういう主人公は嫌だなあと思っていて。「KISSxxxx」に出てくる“かめのちゃん”というキャラクターは、自分の容姿にうじうじ悩むこともないし、ややトロくても全く卑下しない。誰にも尽くさないし、男の子がいてもいなくても楽しくやっていけます。もちろん女子力アップも目指しません。それで、今も本当にたくさんの、当時少女だった読者の方たちが「私はかめのちゃんになりたかった」と言ってくれるんです。

 

私、一度だけ、エプロン姿にオタマを手に持った「お母さん」を描いたことがあるんですね。それは、そのお母さんがどういう人物であるかの設定を怠けて、ただ記号としての「お母さん」を使ったわけです。だからわかるんですけど、ステレオタイプを描いちゃうのは、キャラクターの設定を詰めきれていないということでもあるんですよ。十分なところまでキャラクターが練られていなくて、でもこんなものかなと描いてしまった結果だと思う。だいたいオタマって持って歩かないですよね。しずくが滴るから。 

出典:

 https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5cab1d5be4b047edf95d101e

  

いろいろ言ったけど、実際は色んな価値観を取り入れて漫画を描いている作者さんの方が多いんだろうと思うのよ。『聲の形』とか『パーフェクトワールド』もそういう意識があって生まれたんじゃないかと思うし、ヒロインがぽっちゃりの『ぽちゃまに』、主人公が男オタでヒロインが派手系の『3D彼女』、恋の相手がごつい『俺物語!!』、わたしの世代だと父子家庭の小学生男子が弟を育てる『赤ちゃんと僕』etc.etc.。

  

 

 

最後に 

 

楠本まきさんのnoteに「(ジェンダーの)ニュートラルなんて誰が決めんのよw」ってコメントがついてたけど、私は作者と出版社が「ジェンダーニュートラルってなんだろう?こういう書き方って、誰かに不都合ってあるかな?」って考えながら描いてくれるだけで、7割は満足。

 

わいは千空は女の子でも科学者になったと思うけど、今の世界のコードじゃ千空すらぱんつ要員になるかもしれんねん。わいらの頭にはすで男の千空がおるから「いや、千空が女でも、大樹との友情もクロムとの友情も成立するし、科学王国つくったやろ!」って思うやん?まず男に作ったからそういう可能性がでてくるけど、最初から女に作ってたら千空は見た目からして男じゃない紅ほっぺちゃんやったかもしれんし、そういう表象をまとったままで王国つくるような役割を担わせてもらえたかな?と思うし、大変な状況での役割がはらはら女優泣きすることやったかもしれんし、読者と作品が手をつないでにやっとするためのぱんちら要員やったかもしれんねん。主体とか客体とかってそういう感じのこと。

  

とかまぁそんなことをわたしは考えた、という話です。

 

P.S.個人的にジェンダー表象に違和感を感じずにストーリーだけ楽しめた漫画は、『幽遊白書』からの冨樫義博作品ぜんぶと、皆川亮二先生の『ARMS』辺りかな!あーかっちょいい高槻美沙・・・/////

 

 

*1:Dr.STONEを手にしたきっかけは、有吉弘行がラジオで「Dr.STONE知らないの?おっくれてるな〜!数千年のあいだ、石化したままでずーーーーっと数数えてたんだよ!??すごくない??」ってめっちゃ盛り上がってたから。

*2:例えばよ、千空が司に「男が好きなタイプかい?」って聞いたのなら、そこには差別心はないという主張もまかり通る。

*3:あるいはそんな意図すらなくて、おぱんつは形がい化されているのかも。『I's』や『いちご100%』の時代からあった、おぱんつを見せるというお約束遺産。ぱんつを禁じろってわけじゃないんだよ。例えば『いちご100%』は出てくる関係性は、ヒロインたちー真中だから、ぱんつ出てきても気持ちがマシ。ここに真中以外の男も出てきて、二人が「かー!俺たちってマジ不適切だよな!(ガシッ)」っていう絆に組み込まれたぱんつなら、東城の発言権と男2人の発言権に不平等が起こり始める予感がするから天秤がグロに偏る。

*4:その2年後には同性と恋愛してたけど。

*5:実生活でもボランティア仲間が中高校生30人を前にホモネタで笑いを取ろうとしたことがあった。30人の未成年のなかに、ゲイやビアンも当然いるかもという認識の欠落。指摘された瞬間は恥ずかしいけど、これから認識を増やしていけばいいこと。わたしも指摘されたら辱められたと思わず、そう受け取りたい。

*6:そこから「同性愛は選択だと思う?」って対話がまた広がる。

*7:声をあげている女性えらいって敬意はすごくある。何をどれだけ丁寧に語っても「ふぇみ!」って叫んで終わらせようとする人が実際にいるなかで、黙らないって本当に気力と時間のいることで、これを書いているわたしの気持ちはsolidarityのつもり。もしかしたら表象の改善を望む女性=フェミ漫画を求めているっていうの自体、わたしがどっかで拾った誤印象なのかも。

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