色々やってみる日記

粘土フィギュアの製作ログ、うつや不安症の話、論文執筆やResearch Studentのあれこれについて。

自由になりたい【グレーバーの『官僚制のユートピア』を読み始めての雑感】

 

デイビッド・グレーバーの『官僚制のユートピア』をちらちら読んでいる。主題を簡単にまとめるなら以下のような感じ。

 

今を生きる私たちは、過去のどの世代よりも多くの時間を事務作業に費やしている(レポートを書いたり、申請書を書いたり、報告書を書いたり、プログレスレビューを書いたり)。この裏側にあるのは官僚制のロジックとも言えそうな、生産性のための画一的な人間統治の在り方である。

 

1960年代の社会運動、研究者、小説家たちは、そのような官僚制による生活の支配を問題視していた。一方で、現在ではほとんどの人間がそれを仕方がないものとして受け入れている。一体どうしてこういう事態に至ったのか?

 

そんな内容なのかなと思う(まだ1章読んでるところだけど)。

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官僚制の裏には、必ず何かしらの強制力が存在している。強制力なくして、人はペーパーワークに従わない。どんなにバカらしくても、こんな書類に何の意味があるのかと思っても、それに黙って従わないと何らかのペナルティが発生するから、わいらは諦めてそれを受け入れる。

 

 

 

例えば、わたしは海外在住で日本のクレジットカード(Visaカード)を使って授業料の支払いをしていた。学生なので使用できる上限額が月10万円と決まっていて、授業料はそれを上回るので、半年に一度サービスセンターに国際電話をして上限を上げてもらう必要があった。Visaカードは海外在住の顧客の上限引き上げの手続きをネットでしてくれない。例えば親に委任することも認められておらず、わたしは必ず国際電話で上限引き上げをする必要があった。もちろん、第三者による悪用禁止等、そこに正当な理由が全くないとは思っていない

 

でも電話すると、いつも驚くほど本人確認なんてイージーピージーなの。ご本人様によるお電話でしか受け付けません!という前田さん (ちびまるこちゃん) ばりの頑なさと裏腹に、実際にご本人様がおかけすると、その電話には「りょりょ!おっけす!」くらいの意味しかない。カード会社にとって大事なのは「本人が電話してきた」という建前であって、そこに「本当にご本人様でしょうか?」という類の意味はほぼ存在していないように思える。カスタマーを守るための手続きというよりは、カード会社を責任から守るための手続きだと思うんだけど、違うんだろうか。

 

官僚制はカード会社、銀行、保険、年金、企業、大学と至るところに存在していて、「書類をミスなくできなかったら、補助金出しません!サービス利用できません!この出張を許しません!」みたいな形でわたしたちの生活を圧迫してくる。その割に、ほとんど全ての書類は「こんな書類になんの意味が?」というような内容のものでしかない。わたしは大学で何をするにも書類の提出を義務付けられているけど(倫理、進捗、経費、休学、etc.)意味がある書類だなと思ったものなんて正直ひとつもない。書かなきゃいけない内容は、妥当というより恣意的。書類は大学側の管理の都合のために存在するもので、生徒や研究者のために存在するものではない。

 

わたしは現在(軽度かな?の)メンタルヘルスを患っていて、多分だけどもし日本に住んでいたら精神障害者保健福祉手帳を取れたかもしれない(手帳を取るのにも、当然のように書類申請が必須)。

 

思うことが2つ。

 

ひとつは、メンタルヘルスを患うようになって、ペーパーワークが本当に苦手になったということ。でも社会全体がペーパーワークによって統治されているので、書類が読めない・書けないことは多くの場合「自己責任」という形で本人にのしかかってくる。

 

もうひとつは、わいは昔は書類仕事もそれなりに黙って従えたけど、例えば障害がある人、老人、引きこもり、病人、様々な理由でペーパーワークが苦手な人間ってどうやってこの時代を生きているんだろう。ものすごく生きづらい思いをしているんじゃないのかなということ(あたいは生きづらい)。

 

だからグレーバーが『官僚制のユートピア』みたいな本を書いてくれるのはとても重要なことで、現代人が1960年代〜70年代初頭に社会運動から学ぶべきことは多いんじゃないか。頭の片隅に「そう言えば何でこんなに従順に書類仕事による生活の支配を許しているんだろう?」って疑問が生まれるのは悪いことじゃないと思う。書類をミスったらツケは自己責任っていう社会の在り方って、生産的 (エフィシエントな人間) というモデルに当てはまらない人にとっては常に罰がチラついてようなもので、漠然とした不安感の温床な気もする(軽く書いてるけど、わいにとっては本当に切実な問題)。

 

いつも通り、「今すぐわたしがマルクスみたいに社会を変えるぜ!」っていうわけでは到底(x1億)ない凡人だけれど、心の中にいつでも反-官僚制を飼っているし(全ての官僚制を廃止しろ、っていうわけじゃなくて、バランスと妥当性を再考していこうよという願い)、どうにかして生活に「自由」を取り戻せる方法をぼんやりと考えたりしている。