色々やってみる日記

粘土フィギュアの製作ログ、うつや不安症の話、論文執筆やResearch Studentのあれこれについて。

自由な国に住んでいた頃の話

 

あたいには人生の中で一時期だけ、めちゃくちゃ自由を謳歌した時代があった。それが高校2年の夏から高校を卒業するまでの1年半。

 

わいはその頃、とある国のど田舎に交換留学で行っていた。ちなみに15年くらい前なので、パソコンはでっかかったし、ケータイは白黒で機能は通話とショートメールだけだった(日本の携帯はもうちょっとI-モードとかできてた)。音楽はCDプレーヤーの時代で、Akonとか流行ってた(日本はMD全盛期)。

 

住んでいた町の人口は400人くらい。隣町に行くには車必須。というかどこに行くにも車必須。町にあるのはカフェ2件、スーパー1件、月に一度映画上映してくれる公民館が1つ、土産物屋1つ、ガソリンスタンド1つ・・・みたいな場所だった。学校は違う町にあって、近隣の5つの町から生徒が通ってくる。通学手段はスクールバス一択。1時間弱かけて、あちこちから生徒を拾って学校にたどり着く。

 

学校には小6から高3までがごちゃ混ぜに通っていて、基本的に先輩や後輩という概念はなかった。小6と高3がタメ口で話すのは普通で、年齢差を越えた友情がありふれていた。ちなみに性差もほとんど意味を持っていなくて、男女の友情もありふれていた。

 

年齢差でいちばん驚いたのは、わいの同級生(高3)で常に首席だった背の高いノコノコみたいな男子が、小6の女の子とおおっぴらに付き合っていたこと。しかも、卒業寸前にノコノコの親友(こいつもわいと同学年)が小6の彼女を奪ってしまって、ど修羅場に。魔性かよ!!ちなみに彼女は背は高かったけど、ツインテールとかしていたし、わいからすれば普通に幼かったんだが……

 

 

 

始業ベルが鳴ったら授業に行く、週に一度はアセンブリーがある、みたいな最低限の学校としての枠組みはあったけど、それ以上のルールはなかった。校則ゼロッシーふなっしー。

 

地域柄か悪ガキが多く、中坊が学校でマリファナ吸ってることもあった。ガキに「見張りしといて!」とか言われる。断る日もあれば、暇つぶしに見張ってあげることもあった。免許がないのに車運転したり(車社会だから、これは結構あった)、交通量が極端に少ないから百キロ出したりドリフトしたりも普通だった。一度ホストファミリーの孫(16歳)に学校まで車で送ってもらったことがあって、猛スピード+ドリフトを挟みながらの送迎だった。怖がると相手の思うつぼなので、ポーカーフェイスでいなければならない。

 

ヤンキーっぽい人に絡まれたときに、焦らずに何もなかったかのように接するという処世術はここで身についたものだと思う。

 

わいは以前の記事で触れたように、大人に怒られることを極端に恐れる子供だったけれど、ここに来て弾けてしまった。喫煙、飲酒、マリファナ、喧嘩こそしなかったけど、校長先生に「YOYO 校長!お元気してる?」と声をかけ(校長は笑顔で返事してくれる。漫画かよ!)、同級生に「お前の口を洗いたい」と言われるほど口汚い英語を話すなどして、本当に幸せな時間を過ごした。

 

最初の3ヶ月ほど英語が分からず一言も話さなかったメガネのアジア人が、気付いたらリトルギャングスタワナビーに成長していたので、同級生にはクレイジーアジアンという毒島メイソン理鶯のMCネームみたいなあだ名をつけられてた。

 

全ての生徒がワルだったわけじゃなくて、大学進学するやつも少数いれば、オタクも、いじめられっ子も、エモもギークもナードもいた(アメリカのようなスクールカーストはない)。 多分中学までが義務教育で、高1、高2、高3になると徐々に学校に残る奴が減っていく。「学校はほどほどで終了して、働いてお金を稼ぎたい」という子が半数くらいだったように記憶している。

 

 

 

すごく記憶に残っているのは、ある日の数学の授業。わい以外は全員男、トータル7人くらいの少人数クラス。この学校では珍しく全員大学進学を視野に入れているような真面目な子の集まりだった。数学の先生は鷹揚そうに見えてチクチクきついことを言うタイプの人で、自由を謳歌していたわいにとっては、幼き頃の大人への恐怖心が若干顔を出す相手だった。

 

その日は先生が少し遅れていて、誰かが「今日いい天気だなぁ。外行くか」と言い出した。そしてホワイトボードに大きな池と魚と釣竿の絵を描いて、「天気がいいのでみんなに釣りに行きます」と書き置いて本当に外に出て行ってしまった。みんなで外でワークブックをしていたら、10分後くらいに所在を突き止めた先生が笑いながら出てきて、その日はそのままお外で授業を続けることになったの。あのときに「いたずらって、しても別に怒られないんだ!」というブレイクスルーをひとつ経験することができた。

 

ちなみに、数学のクラスはカリキュレーターの使い方がわからなくてずっと詰んでた。今なら数学が分からなかったらネットで検索できるけど、あの頃はわざわざ日本から参考書を送ってもらわなくちゃいけなかった。

 

 

もちろん大変なこと、辛いこと、嫌なこともあったけど、それを補って余りある自由がそこにはあった。高校を卒業してすぐは、当然のようにあの国に骨を埋める気でいた。でも大学に行って欲しいという母の願いがあったり、そこから想像以上に勉強にのめり込むという事態があったりで、わいの人生の道はあの自由な場所とは袂を分かつてしまった。これから先の将来は分からない。

 

生まれてくる国を間違えたと思うくらい、わいはあのど田舎で水を得た魚になった。今でも特別な気持ちを持っているのに、なんとなく移住とかに踏み切る気になれないのは、この年になって、あの自由をティーンエイジャーだった頃のように愛せるのか自信がないからなのかもしれない。あとは環境要因ってマジですごいなって話。