色々やってみる日記

粘土フィギュアの製作ログ、うつや不安症の話、論文執筆やResearch Studentのあれこれについて。

不安障害の症状と辛さについて、再び。

土曜日に母とスカイプでゆっくり話していた。過去にも何回か「不安障害なんて思い込み」みたいなことを遠回しに言われていて、今回また「私にだって不安なことくらいあるんだよ」と言われた。少しだけ頑張って「わいの不安障害はこういうものだよ。腰痛と椎間板ヘルニアが別みたいに、不安と不安障害は違うんだよ」を伝えたら、なんとなく「あ、私が思っていたより深刻なのかしら?」と思ってもらえたみたい*1

 

ちょっとここでも自分にとっての「不安障害はこういうもの・こういうものじゃない」を書いてみようかなと思った。

 

不安障害には一般的に強迫性障害(OCD)、パニック障害、社会不安障害、全般性不安障害(GAD)、恐怖症(フォビア)、PTSD等の内的バリエーションがある。このなかでわいが当てはまるのはSpecific phobia、特定の物に恐怖心を感じる『恐怖症』(例えば高所恐怖症、広場恐怖症、閉所恐怖症、アラクノフォビア等)。恐怖症が原因で他にも不安感が広がって、本当にうっすらとだけGADがあるような感じだと思っている。ここに書いてあるのはわい個人の不安障害であって、不安障害の人全員を代弁するものではない。

 

 

 

 

不安障害「これだ・これじゃない」わいヴァージョン。

不安障害は不安ではない。

小学生くらいから不安感は強い方だった。教育方針がpunitiveな学校に通っていたこともあって、どうすれば大人から怒られずに済むかばかりを考えている子供だった。不安障害の人にはけっこうあるらしいが「逮捕される」という不安が強くあって(人によっては死への不安感、病気への不安感、貧困への不安感等バリエーションが様々だと思います)、品行方正に生きてきたにも関わらず、「逮捕される」という潜在的不安を抱えて365日を生きている。空港の入管審査とか死ぬほど嫌いだ。

 

しかし、上の状態は私にとっては不安「障害」ではなかった。30年ほど生きてきたなかで(初期の軽い症状を含めたなら)わいが不安「障害」に寄って行ったのはここ4年の話。明確に不安障害を名乗れるくらい症状が悪化したのはここ2年だ。不安障害じゃない時期があったので、「不安感と不安障害は違う」という確固たる認識がある。

 

主観的な見解だと、一番の違いは「逃避傾向の強さ」である。小学校のときは毎日怒られないか不安だったけれど、学校に通えていた。なんなら皆勤だった。修士のときは、指導教官がムードにばらつきのある人で、唐突に怒ることがあるから苦手だった。けど、メールチェックは毎日していたし、怖いなと思いつつ即返信ができていた。博士の指導教官候補の人に「こういう研究をしているものですけど、指導していただけますか?」と修論を送ったときも、ゲロ吐きそうに不安だったけど、毎日返信が来ていないかチェックできた。

 

こういうことが、今はどれもできない。学校にも行けないし、指導教官とのコミュニケーションも取れないし、こちらが起こしたアクションへのレスポンスを確認することもできない。心の中にかなり大きなモンスターが住んでいて(こいつが不安障害)、俺の服の裾をぐいぐいぐいぐいぐいぐい引っ張ってくる。俺の心を綺麗にくじくことをお仕事にしている。10ヶ月間外出できなかったときは、住んでいる街の境界線に「結界が張られているようだ」と思った。見えないウォールマリアが確実にあって、本当に結界に弾かれるように、そこから外に出られない。

 

出ようとすると(これが暴露療法と呼ばれる)、私の場合は身体的に不安反応(パニック)が出る。胸の鼓動がドンキーコングになって、血液が凍ったり沸騰したりする。手先が冷たくなって、体が熱くなって、肺がゲンガーでも吸い込んだみたいにもったりと呼吸が苦しくなる。頭にパーンと何かしらの成分が回って、真っ白になる。それがぜーんぶいっぺんに来るから、「あかん、パニックで死んでしまう」と思う。実際にはパニック障害では人は死なないらしいんだけれど、本当に「こんなんに耐えるくらいなら死ぬ」っていうくらい、経験している本人には辛いものがある。ベロベロに酔っ払って前後不覚な状態で、クラブのレーザービームとか爆音とか車のハイビーム浴びてて心臓ばくばくするような感じ?

 

 

不安障害は「逃避のするため」の詐病じゃない。

わいはアドラー心理学があまり好きじゃない。それはアドラーがPTSDを「辛い過去があるから行動できないんじゃなく、行動したくないという欲望を叶えるために辛い過去を理由にして逃避を叶えている」みたいなことを言うから。一冊しか読んでないから、誤読だったらごめんね。その理屈に従えば、不安障害も「逃避するという目的を叶えるために」体が起こしてくれている症状ということになる。

 

もしアドラーの理屈が本当だったとすれば、「逃避したい」という目的と同等か時にはそれ以上の「もう逃避を止めたい」という欲求について説明してほしい。なぜ体はいつも、前者の目標を叶えるための反応だけを返して、後者の目標を叶えるための反応を返さないのか。例えば、今のわいにはもうほとんど逃避をするメリットはない。もういろんな答えは出てしまっているからだ。あとはもう事務仕事が残っているだけ。それでもわいは、未だにいろんなことができなくて悩んでいる。未だに恐怖症に向き合うのがとても辛い。モンスターは服を引っ張るどころか、わいを抱きかかえんばかりで、振り切ってやろうとするとドコドコ身体反応が襲ってくる。

 

不安障害やPTSDを「逃避するための手段」だという仮説を一旦受け入れたとしよう。じゃあ次に「解除の仕方を教えてくれ」。

 

誰でもいいから、とりあえず解除の仕方を教えてくれよ。

 

 

 

不安障害は辛い。

何度も言ってきたけど、不安障害はとても辛い。私の場合、その理由は「不安障害以外の部分はけっこう健康だから」だと思う。うつのときみたいにベッドから起き上がれないわけじゃなく、体のどこかが痛いわけじゃない。エネルギーが空っぽというわけでもない(うつを併発していたら、話は別)。身体的なバロメーターで言うと、行動するための条件は様々揃っている状態。それなのに行動ができない。となると、必然的に自分を責めてしまう。そこそこ健康なのに、なぜできないんだ?と。何を同じところで足踏みしているんだ?どうして踏み出さないんだ?全部お前の意志で足踏みしているんだろ?

 

だから言ってるやんけ、解除の仕方を教えてくry。

 

※ 私は睡眠障害、うつ、不安障害を国外で発症したので知らなかったが、パニック障害だと障害年金がもらえないらしい。こういう理由が明白じゃない決定ってとてももやもやする。

 

【参照】パニック障害の何が辛いかを簡単に語る - ニャート

 

 

不安障害は治らないかもしれないが、抱えて生きていくことは可能らしい

不安障害を治すのはとても大変、というのが、わい個人の経験+様々な治療本から受けた印象である。不安障害が「寛解した」というのは、うつに比べても目にしない気がする。いや、すまん、よくわからん。もしかしたらサクっと寛解した人も大勢いらっしゃるのかもしれない。わいが読んだ本はけっこう「不安という身体的な症状自体は消えないかもしれないけど、それが社会活動や生活に多大なる支障を及ぼさないようにすることは可能だよ」っていうアプローチが多かった。

 

俺は不安の症状がとてもとても辛くて苦手なので、できたら「結界を解除していく方向」で治療をしたいんだが、「結界はずっと張られたままで、ぞわっとおえっと死ぬっとしながらも通り抜ける方向」になる可能性もあるんだなと認識している(ひぇ)。

 

パニック障害を告白されたオリックスの小谷野選手も、今でも打席に立つ前は吐いてしまうらしい。それでも選手を続けられているのは「不安を感じつつ、生活はできている」の好例なんだろう。パニックに全く慣れる気配がない自分としては、本当にすごいなと思う。

 

【参照】過去の僕に戻りたいとは思わない。 - ほぼ日刊イトイ新聞

 

※ 水泳のフェスプス選手も長年うつと不安障害に苦しんでいる一人だ。プロ野球選手でも、オリンピックのメダルを20個以上持っていても、不安障害やうつになるときゃなるし、なったら死ぬほど辛いのだ。そこには個人の強さや弱さ、健全さ不健全さ、正しさや間違いは関係ない(SNS等で、「メンヘラ=社会不適合」という強めの意見をたまに目にするけど、誰だってなるときゃなるんやで)。

 

本筋に話を戻す。どうやら、不安障害を抱えつつ生きていく上で重要なのは、

tips
  1. 医者やプロフェッショナルの助けを得ていること
  2. パニック症状が「出ながらも」行動する方法を学んだこと
  3. 不安障害の自分を許して、恥だと思わないで受け入れられたこと
  4. みんながちょっとずつ正直になって、自分の苦しみを話すこと

のようだなと個人的には思う。私だと①は現状難しい(もうすぐ場所を移動してしまうので、医療サポートを受けるベストタイミングじゃない)、②はこの2ヶ月くらいでチャレンジ中、③もな〜、あんまりできてない気がする。

 

うつのときの涙は体の自然な反応というか、抗いがたく流れるものだったけど、不安障害の涙は「素のままの自分が『こんなこともできない』『こんなことが死ぬほど怖い』『弱くて、無責任な自分が恥ずかしい』と思って泣いている」からとても恥ずかしいと思ってしまう。この後に及んでまだ強がりなのだ。

  

でも言い換えれば、不安障害を治療中の自分は「いくらでも泣いていい、恥を晒していい、人に迷惑をかけてもいい」ということになる。それをすることで、最終的には不安障害と共生できる道が開けていくみたいだから。

 

②に関しては、CBTやACT、森田療法を筆頭に方法論がいくつか存在する。暴露療法はメソッドを学ぶことでより安全に、より効果的に実践できる(んだと思う)。けど、どのメソッドを使おうが根底にあるのはシンプルに勇気の問題な気がする。わいはこの勇気を出すのに、丸10ヶ月もかかってしまった。もし③が先に来て、泣き叫んででもハウスメイトや親や医者に助けを呼べていたなら、外的な支援のおかげでもっと早く②に取り組めた可能性はあるなと思う。

 

そして最後の④は、世の中のほぼほぼ全ての人間が、自分の弱いところを隠して生きてるんじゃないかい?ということ*2。案外腹を割ってしゃべってみたら、みんなそれぞれ病気だったり、恋愛だったり、夫婦関係だったり、子供のことだったり、お金のことだったり、問題を抱えて生きている。先に自分の弱さをさらけ出すことで、相手を安心させてあげられるということはおおいにあるような気がしてる。だからそれも含めて、わいはここから先の不安障害治療で、泣いてもいいし、弱さをさらけ出してもいいし、みっともなくてもいいし、あがいでもいいし、上手にできなくてもいいんだと思う。「どうしたん?大丈夫?」って周りに気づかれるくらいあけっぴろげでいいんじゃないか。今までのわいは上手に自分の不安を隠しすぎたのだ。

 

 

 

*1:ちなみに、母にはいつも心配してもらって、見守ってもらって、支えてもらっているのでdisする気は1ミクロンもない。いつもありがたう。

*2:except for highly insensitive person or something.